たまには歴史の話

戦国好きの人ならば、義久、義弘、歳久、家久の島津四兄弟の名前を聞いたことがあると思う。木崎原合戦、沖田畷合戦、豊後戸次川合戦などの戦いに勝利し、九州全土を島津氏がほぼ制圧しかけたのは、鉄砲の有効利用、ステガマリ*1に代表される薩摩隼人の死に狂い的戦闘力もあるが、島津の四兄弟がことごとく有能であったためと言われている。


特に義弘は、慶長の役でも凄まじい戦闘を繰り広げ*2関ヶ原の戦い*3では、家康本陣眼前を突き抜ける中央突破退却戦(いわゆる「島津の退き口」)で武名を轟かせた。


さて、しかしどうして当主の義久よりも、弟の義弘や家久ばかりが戦っているのか、関ヶ原の戦いで島津勢がなぜ約1000人しかいないのか。そこらへんのことが以前からよくわからんかった。しかしネットでこの時代の話を検索しても、戦国武将というのは人気がありすぎるため、極度に美化されていたり、史料的裏付けのない話が多かったりして、キチンと把握するには、ちゃんとした本を読んだ方が良さそうだった。


というわけで、「島津義弘の賭け」を読んでみた。著者は東大の史料編纂所の教授・山本博文


なるほどと思ったのは、この時代の島津は(他の時代、他の大名家でも同じだが)家中にいろんな問題を抱えており、四兄弟が一致団結して戦ったというよりも、各人がそれぞれ微妙に異なる思惑を抱いて動いていたということだ。秀吉の軍門に下る際にしても別々の対応を見せている。その渦中で末弟家久が亡くなり*4、最後まで抵抗した歳久は、その後秀吉に自害を命じられた。


それからしばらく後にも、それぞれに権力を持つ義久、義弘、忠恒*5の三人は、一時かなりの緊張した関係にあった。このへんの状況は年代によって刻々と変化していくので詳しいことは本を読んでほしい。とにかく、関ヶ原の合戦前、上方にいた義弘は当主である忠恒に軍勢を派遣するよう再三要請しているのだが、国元からの組織的な援助はついになかった。これは、名目上は隠居しているものの強い影響力を持つ義久の意向が強く働いたためである。それでも、義弘を慕う武士たちが個別に国元から馳せ参じ、強力な結束力を持つ義勇軍が編成されたというわけだ。


上記以外にも、家臣である伊集院忠棟(幸侃)の惨殺、忠真との約1年に及ぶ争い(荘内の乱)のような内部抗争もあり、島津家の内部事情は想像以上に複雑である。これらの状況を知らずして、西軍に属した大名のうち唯一島津だけが所領を安堵された理由について語ることはできないと思う。


まぁ、こんな話は知ってる人からみたら、今更なのかもしれませんね。うーむ、お勉強が足りませんでした。

*1:ステガマリとは、退却戦の際に少人数を殿(しんがり)に残し、彼らが座り込みつつに相手をギリギリまで引きつけ鉄砲で敵指揮官を狙い、弾薬が切れれば槍や刀で特攻して少しでも本隊が退却する時間を稼ぐという、文字通り決死の戦法。

*2:泗川城の戦いにおいて島津義弘・忠恒・忠長らは5000の島津軍をもって約20万の朝鮮・明連合の大軍と戦い、これに圧勝。島津家の記録によると、敵の首級を3万8717も挙げ、味方の戦死は2名。話半分いや百分の一としても凄まじい。しかしこれでは戦闘じゃなくて虐殺のような気もするが。海戦では朝鮮救国の英雄・李舜臣を戦死させた。連合軍に鬼石曼子(グイシーマンズ:鬼島津の意)と恐れられたという。

*3:関ヶ原の戦いの間、義弘は「せめて五千連れてきていれば、今日の合戦は勝つだろうに」と二、三度言ったという。これは悔し紛れの大口とは言えない。九州制覇の過程において島津軍は常に少数で大軍を破ってきたし、他の大名からも最狂の軍兵として恐れられていた。

*4:家久の死因には豊臣秀長が家久の軍事的才能を恐れ毒殺したと言う説と、当主義久の許しを得ずして豊臣方と単独講和した家久を島津家側が毒殺したという説、たまたま病没したという説がある。

*5:島津忠恒:義弘の子で義久の養子。後に家康から一字貰い家久と名乗るが、叔父の家久とは別人。まぎらわしい。