本筋を忘れ、ディテールに走る

まぁしかし、冷静に考えてみると、監督の能力がイーブンだったとしても、やはり多くの面で日本がイタリアには劣っていたのは明らかだと思う。思うに、イタリアは誰が監督だろうとも常に勝つために効率よく戦える。身体能力もテクニックも汚いプレーも戦術も何もかも、すべては試合に勝つために存在するものであるはずなのだけれど、日本の場合には、なかなかそれらが勝利のために収斂しない、焦点が合っていないように思う。見た目に分かり易い個々の選手の物理的な運動よりも、そこが一番の違いなんじゃないだろうか。だからこそ、監督に多大な期待を寄せざるを得ないのが今の日本の現状なのだ。そんなことを考えていたので、イヌゲノムさんの文章「昨日、柔道とサッカーを見て思ったこと(長文注意)」には、我が意を得たりと膝を打った。

オシムは選手たちにフットボールの講釈をするよりも、走って、ボールを動かして、シチュエーションごとのプレーのシミュレーションをさせる。ボールを持ったらどうする? ボールを持った選手がいたらどう動けばいい? ボールを受けやすくするには? パスを出したあとは? パスを受けたあとは? それらが連鎖してどんどんと広がり、ピッチいっぱいに拡がった時点で、それは戦術として形を成し、「フットボールの精神」の礎となるのである。

戦術とはいかに動きを連鎖させるかであり、ただ選手を並べるだけのものでは決してない。そして、机上の戦術を弄ぶならば素人でもできるが、プロ選手のチームに真の戦術を徹底して植え付けることができる本物の指導者というのは、まったく別次元なのだなと思う。サッカーの本筋を充実させるためには、当たり前の事を積み重ねることこそが大事なのだろう(もっとも、それを徹底させるのは極めて難しいから、優秀な監督が必要なのだ)。山本監督は選手のユーティリティ性やシステム変更、選手の組み合わせ、選手間の競争、コミュニケーション力の向上、暑熱対策などのディテールに目を向けすぎてしまった結果、本筋を忘れ、最終的にチームに芯の無いままを五輪で迎えてしまった。