再読


それぞれの時代に、
その時代の空気というものがある。


それは激しく移ろいゆき、
後世の人間が歴史書を読んでも、
正確に理解することは難しい。


と同時に、一つの時代にも、
様々な考えを持った人々が暮らしている。
その雑多で猥雑、ピンキリな世界を
真に把握するのは極めて困難だ。


たとえば僕らの世代にとって、
1950年代の気分や、その多様性は、
これまで読んだ本や、当時の写真、映像から
伺い知ることはできるものの、
その時代を実際に生きた人間の認識とは、
かなりの隔たりがある。


それぐらいの昔であれば、
まだ、認識の差異を実感できるのだが、
さらに昔となると、
違和感に気づくことすら難しくなってくる。


昨今、戦前が遥か遠くになったせいで、
どうも明治〜終戦までのイメージが、
純化され、真実とかけ離れつつあるように思う。


明治・大正・昭和初期という激動の時代、
それぞれの時代の気分が
どれだけ左右上下にゆらゆらと揺れ動いていたか、
どれだけ様々な生き方が勃興隆盛し、
せめぎ合い、衰退していったのか、
経験者として積極的に表現しようとする人間は、
ほとんどいなくなってしまった。


過去は、美化され、卑下され、歪曲され、
純化され、政治化され、
都合のいい記述ばかりが取り上げられ、
捏造されることもあることもあるくらいで、
ますます遠のいていくばかりだ。


この隔絶を埋めるためには、
あの時代を生きた人による書物、
それも、取り澄ました表層についてではなく、
実情が冷静に描写された本を読むしか無い。


そんな本の中でも、白眉の一冊として、
明治生まれ大正育ちの詩人、金子光晴
絶望の精神史
をお勧めしたい。


金子光晴は1965年の執筆当時、既に70歳。
歴史の中心とはかけ離れた人々に光を当て、
近代日本史の隠れた一断面を切り取り、
その底にある、日本人の宿命の根源を
明らかにしようとした。


明治〜昭和にかけての、一般的な歴史について、
それなりの知識を持っている人間も、
この本に書かれていることには、
いろいろと考えさせられるはずだ。
これでもかというほどに、
矛盾と不条理に満ちたエピソードが列挙されていく。


日本の近代史に興味があるならば、
必ず読むべき本だと思う。


詩人らしい豊かな感性と表現で描かれた、
時代の変遷と、雑多な人々の有り様、
そしてその絶望の物語は、
こころの奥底にドスンと重く響く。


時代とともに変わってしまうような
薄っぺらな文学センスや、政治的歴史観ではなく、
本物の人間洞察を基にしているからこそ書きうる文章。


金子光晴は、1965年の段階で既に、
明治以降の日本の歴史に対して、
列強と競争していく他に道はなかったという考え方、
戦後日本のありかたこそ正しいものであるという考え方、
そのどちらにも、警戒すべき点が多いため、
手放しで賛成することはできないと述べ、
それが何であれ、過信することにより
未来への甘い妄想が生まれると警告する。

そしてできるならいちばん身近い日本人を知り、探索し、過去や現在の絶望の所在をえぐり出し、その根を育て、未来についての甘い夢を引きちぎって、すこしでも無意味な犠牲を出さないようにしてほしいものだ。
絶望の姿だけが、その人の本格的に正しい姿勢なのだ。それほど、現代のすべての構造は、破滅的なのだ。


あの時代に生きた文学者達の中において、
金子光晴の生き様、表現は、異彩を放っている。
『絶望の精神史』は、
これからも、激しい衝撃を読者に与え続けるだろう。